大村益次郎とは?何をした人かを簡単に解説|日本陸軍の創設者の実像

大村益次郎とは?何をした人かを簡単に解説|日本陸軍の創設者の実像 日本の歴史

大村益次郎とはどんな人物?

大村益次郎の基本プロフィール

大村益次郎は幕末から明治初期にかけて活躍した兵学者であり政治家です。

周防国鋳銭司村で村医者の家に生まれた人物でありのちに日本陸軍の基礎を作ったことで知られています。

生年は1824年で没年は1869年です。

本姓は村田であり若いころは惣太郎と名乗りその後は村田良庵や村田蔵六という名で活動していました。

のちに長州藩の軍事に本格的に関わるようになってから大村益次郎という名前を用いるようになりました。

学問的には蘭学や医学に優れており大阪の緒方洪庵が主宰した適塾で学んだことでも知られています。

その後は医師としてだけでなく蘭学者兵学者としても評価され諸藩や幕府の機関で教える立場になっていきました。

維新後は新政府で兵部大輔という要職に就き日本の近代的な軍事制度を整える中心人物として活動しました。

しかし1869年に京都で襲撃され大阪で亡くなり比較的短い生涯を閉じました。

医師から軍事指導者へと転身した理由

大村益次郎はもともと村医者の家に生まれ漢方や蘭方を学んだ医師でしたがその学問的才能は医学だけにとどまりませんでした。

若いころに蘭学を学ぶ中で西洋の自然科学や兵学にも触れたことで軍事技術への関心を深めていきました。

特に緒方洪庵の適塾での学びを通じて数学物理学といった分野にも強くなり砲術や軍艦の設計といった実用的な軍事分野にも応用できる知識を身につけました。

その能力が評価される形で宇和島藩に招かれ洋式軍艦の設計や兵学の指導に携わるようになりました。

ここで医師というよりも実務的な軍事技術者としての側面が強まりのちに長州藩の軍制改革へとつながっていきました。

幕末の日本は欧米列強の圧力が強まり武力と軍事技術の差が国の存亡に直結する時代でした。

そのため西洋の学問と技術に明るい大村益次郎のような人物は医師であっても軍事面での助言や指導を求められる存在になりました。

長州藩では洋式軍備の整備が急務となり大村は兵学者として招かれて大砲の運用や部隊編成など実戦的な指導を行いました。

こうした流れの中で大村益次郎は医師という枠を越え近代的な軍事知識を持つ指導者としての役割を担うようになりやがて新政府の軍事指導者へと成長していきました。

大村益次郎は何をした人?主な功績を簡単に解説

日本陸軍の基盤を築いた中心人物

大村益次郎は明治新政府において軍事を担当する兵部省の中心人物として日本陸軍の基礎を築いた人物です。

1869年に兵部大輔に就任し兵部省の事務を取り仕切る立場となり実質的に日本の陸軍創設を主導しました。

兵部省はのちの陸軍省や海軍省につながる重要な役所でありこの時期に決まった方針が後の日本軍全体の方向性を決めることになりました。

大村は藩ごとにばらばらだった武力を中央政府が統一して管理する考え方を進め近代国家としての常備軍を整える構想を示しました。

また身分や出身にとらわれず能力にもとづいて人材を登用しようとした点も従来の武士中心の軍制とは大きく異なる発想でした。

こうした政策によって大村益次郎は日本陸軍の創始者や陸軍建設の祖と呼ばれるようになりました。

長州藩の軍制改革を担当し近代兵制を導入

大村益次郎が名を上げた大きな契機は長州藩の軍制改革を任され西洋式の軍隊づくりを進めたことです。

第二次長州征討を前にした長州藩では幕府との戦いに備えて軍備の近代化が急務となっており大村は村田蔵六の名で登用されました。

彼は藩の特別資金を使って銃や大砲を大量に購入しこれまでの刀や槍中心の武装から洋式銃砲を主体とする装備へと転換させました。

さらに兵を身分で分けるのではなく訓練された部隊としてまとめて運用する考え方を取り入れ組織的な部隊編成や指揮系統を整えました。

長州藩の各地に洋式の練兵場が設けられ兵士たちは隊列行進射撃訓練大砲の操作など西洋式の訓練を受けるようになりました。

こうした改革によって長州藩は列強に遅れない近代的軍事力を持つ藩へと変わり後の倒幕運動と新政府軍の中核として大きな力を発揮しました。

戊辰戦争で指揮を執り新政府軍を勝利へ導いた

大村益次郎は1868年に始まった戊辰戦争で新政府側の軍事指導者として活躍し旧幕府軍との戦いを勝利に導きました。

鳥羽伏見の戦いで新政府軍が優勢になると大村は東征大総督府に加わり各地の戦線で作戦立案や部隊運用の中心的役割を担いました。

特に江戸の北にある上野で旧幕府側の彰義隊を撃破した上野戦争では大村の砲兵重視の戦術が威力を発揮し短時間で決着をつけました。

彼は城や陣地を正面から攻めるのではなく大砲と銃による集中攻撃で敵の戦意と防御力を奪う近代的な戦い方を徹底しました。

その後も東北や北陸方面への戦いでは長州藩をはじめとする諸藩軍をまとめ上げ効率的に戦力を配分することで新政府軍の優位を保ちました。

戊辰戦争における一連の勝利は大村益次郎が築いた長州藩の洋式軍制と彼自身の合理的な指揮能力が結びついた成果であり新政府が全国を統一する決定的な要因となりました。

大村益次郎の思想と軍事改革のポイント

徴兵制導入の構想とその背景

大村益次郎は明治政府の兵部大輔として活動していた時期に国民を広く兵士として動員する近代的な徴兵制を構想していた人物です。

当時の日本では各藩が独自に武士団や藩兵を抱えており中央政府が一元的に指揮できる常備軍はまだ整っていませんでした。

大村は藩ごとの兵力に頼る仕組みのままでは欧米列強と対等に渡り合うことが難しいと考え身分や出身に関係なく全国から兵士を集める国民皆兵の考え方を示しました。

実際の徴兵令が制定されたのは1873年で大村の死後のことですが兵制を中央集権的に整えようとした彼の構想はその前段階として位置づけられています。

また大村は兵士の質を保つためには教育や訓練の制度も合わせて整える必要があると考え徴兵と軍事教育を組み合わせた近代国家型の軍制像を描いていました。

こうした発想は士族だけが武力を担うという従来の常識を大きく揺さぶるものでありのちに明治政府が採用する徴兵制の思想的な土台の一つになりました。

西洋の軍事学を取り入れた理由

大村益次郎が西洋の軍事学や兵学を重視した背景には幕末期に日本が欧米列強の軍事的脅威に直面していた現実があります。

当時の日本の伝統的な兵学や戦術では大砲や小銃を主力とする近代戦に十分対応できないと考えられるようになり各藩や幕府は西洋式の兵学書や教練書を翻訳して研究していました。

大村自身も蘭学や数学物理学に通じていたため砲術や築城などの分野で西洋の理論を理解しやすく洋式軍艦の設計や軍政の改革に携わる中でその有効性を体感していきました。

彼は戦争を精神論だけで語るのではなく火力や兵站部隊運用といった要素を数値や理論で分析する姿勢を持っておりこれは西洋の軍事学の影響を強く受けた合理的な考え方でした。

長州藩や新政府軍での指揮においても大村は刀や槍よりも銃砲を重視し部隊の編成や行動も西洋式の隊列や戦術に基づいて組み立てました。

こうした西洋兵学の導入は一時的な模倣ではなく日本が独立を保つために必要な現実的手段であると大村は判断しておりその姿勢が後の日本陸軍の基本方針にも引き継がれていきました。

日本の近代化に与えた影響

大村益次郎の軍事改革は軍隊組織だけにとどまらず日本の近代国家としてのあり方にも大きな影響を与えました。

藩ごとの兵力を統合して中央政府のもとに常備軍を置くという発想は政治の面では中央集権体制の強化や版籍奉還廃藩置県といった改革と密接に結びついていました。

大村が構想した大阪を軍事と兵学の中心とする計画や兵器の国産化を進める方針はのちの大阪砲兵工廠や大阪城周辺の軍事施設整備へと受け継がれていきました。

また西洋式の軍事学にもとづく教育や訓練は単に兵士を育てるだけでなく規律時間管理合理的な判断力といった近代的な価値観を社会に広める役割も担いました。

さらに国民皆兵へとつながる考え方は国民一人一人が国家と結びつくという意識を生み出し近代国家日本の形成を進める要素の一つになりました。

大村が暗殺により早くに亡くなったため彼の構想はすべてが実現したわけではありませんが日本陸軍の制度や軍備計画の方向性を決定づけた点で日本の近代化に与えた影響は非常に大きかったといえます。

大村益次郎の最期と暗殺事件

暗殺の背景にあった反発と政治的対立

大村益次郎が暗殺されるころには彼は兵部大輔として事実上日本の軍事政策を指導する立場にいました。

彼は諸藩の軍隊を中央政府のもとに統合し徴兵制や鎮台設置兵学校建設などを通じて近代的な常備軍をつくろうとしていました。

その構想の中には将来的な藩の廃止や士族の特権縮小そして廃刀令や国民皆兵を見据えた大胆な改革案が含まれていました。

一方で大久保利通らは藩兵を基礎とした漸進的な軍制を主張しており大村の農兵論すなわち一般の農民を含む徴兵案とは激しく対立しました。

政府内の議論の結果大村の建軍計画は凍結され彼自身も一時は更迭を求められるなど政治的に孤立し始めていました。

加えて急速な軍制改革は旧来の武士階層から強い反発を招き特に刀を帯びた武士の特権が失われることへの不満は大きなものでした。

大村が大阪を軍事と兵学の中心にしようとした構想も薩摩など有力藩の影響力を弱める動きと受け取られ政治的な警戒心を生む要因になりました。

1869年に大村が京阪地方の軍事施設の視察に向かった際京都では新軍建設に不満を抱く士族たちの間で大村排斥の空気が高まっていました。

弾正台支所長官であった海江田信義が遺恨から士族を扇動したとする風説もあり新政府内の対立と不平士族の怒りが複雑に絡み合っていました。

同年9月4日大村は京都三条木屋町の旅館で長州藩士らと会食中に元長州藩士団伸二郎神代直人ら8人の刺客に襲撃されました。

襲撃では側にいた静間彦太郎と安達幸之助が即死し大村も額こめかみ腕指肘膝などに深い傷を負いました。

刺客が持っていた斬奸状には大村の急進的な兵制改革が国体を害するという趣旨の非難が記されており暗殺の動機が改革への激しい反発にあったことがうかがえます。

大村は風呂桶に身を沈めてとっさに身を守り一命はとりとめましたが右膝の重傷は動脈と骨に達するほど深刻なものでした。

日本の軍政に残した「未完の改革」

襲撃後大村益次郎は京都の山口藩邸に運ばれて応急手当てを受けたのち大阪府医学校病院へ移されました。

医師たちは右脚の切断手術を決断しましたが勅許を得る手続きに時間がかかりその間に傷口から細菌が入り敗血症を引き起こしてしまいました。

手術自体は行われたものの容体は回復せず1869年11月5日に45歳で亡くなりました。

臨終にあたって大村は西国からの反乱に備えて四斤砲を大量に整備するよう指示し自らの足を師である緒方洪庵の墓のそばに葬ってほしいと遺言したと伝えられています。

大村の死は新政府にとって大きな痛手であり木戸孝允は日記や書簡の中で深い悲しみと今後の兵部省への不安を率直に記しています。

しかし大村の構想はそこで完全に途切れたわけではなく山田顕義や船越衛ら側近たちが中心となって兵部省軍務ノ大綱としてまとめ上げ太政官に提出しました。

この大綱や大村の農兵論はその後の徴兵規則や1873年の徴兵令に受け継がれ日本が国民皆兵を掲げる近代国家へ向かう際の理論的な土台となりました。

一方で大村が想定していた大阪中心の軍事体制など一部の構想は実現し切れずのちに山縣有朋らがヨーロッパ視察の成果を踏まえて別の形で軍制を整えていくことになりました。

もし大村が生きていれば日本陸軍の組織や軍事政策は違った姿になっていたのではないかという指摘もあり大村の軍制改革はしばしば未完の改革として語られます。

それでも徴兵制を核とする近代的な常備軍という方向性自体は維持され続けたため彼の残した設計図は形を変えながら日本の軍政の骨格に組み込まれていきました。

大村益次郎が後世に与えた影響

日本陸軍の制度の礎として評価される理由

大村益次郎が後世に日本陸軍の父と呼ばれるのは彼の構想と改革が後の陸軍制度の大部分に受け継がれたからです。

彼は兵部大輔として藩ごとに分かれていた武力を中央政府のもとに統一し常備軍を整備する方針を示しました。

この考え方はその後の兵部省陸軍省海軍省の組織づくりに反映され近代的な軍政の枠組みの出発点になりました。

また大村は身分ではなく能力や訓練を重視する姿勢を取り士族だけでなく広く人材を登用する必要性を説きました。

のちに実施される徴兵令は大村の死後に山縣有朋らが中心となって制度化したものですが国民を兵力の基盤とするという発想は大村の農兵論と深くつながっています。

さらに教え子や関係者からは伊藤雋吉のように後に海軍で重責を担う人物も出ており大村の影響は陸軍だけでなく日本の軍事全体に及びました。

こうした点から大村益次郎は陸軍建設の祖近代日本軍創業の功労者として歴史上高く評価され続けてきました。

靖国神社で顕彰される人物となった経緯

大村益次郎が靖国神社で顕彰されるようになった背景には日本の近代軍制を築いた人物としての功績を後世に伝えようとする動きがありました。

現在の靖国神社はもともと明治維新の戦没者を祀るために東京招魂社として創建された施設であり大村は戊辰戦争の指揮官として深く関わった人物でした。

明治期には大村の没後に門人や関係者が中心となって顕彰事業が進められその一環として銅像の建立計画が持ち上がりました。

靖国神社の外苑に建てられている大村益次郎銅像は明治26年に完成したもので日本で最初の本格的な西洋式銅像といわれています。

像は彫刻家大熊氏廣が制作し筒袖羽織に短袴を着け左手に双眼鏡を持つ姿で表現され上野の彰義隊を見据える姿をモデルにしたと伝えられています。

台座には三條実美による顕彰文が刻まれており大村が日本陸軍の父として近代的軍隊の基礎を築いたことや維新政府への貢献がたたえられています。

靖国神社の参道中央に立つこの銅像は長く東京の名所として親しまれ維新の軍事指導者としての大村益次郎像を象徴的に示す存在となりました。

こうして大村は戦没者を祀る場である靖国神社においても近代日本軍の礎を築いた人物として顕彰され後世の人びとにその名が伝えられることになりました。

年表

西暦和暦主な出来事
1824年 文政7年周防国鋳銭司村の村医者の家に生まれる。
1842年天保13年防府に出て蘭医梅田幽斎に入門し医学と蘭学を学び始める。
1843年天保14年豊後日田に遊学し広瀬淡窓の咸宜園に入門する。
1846年弘化3年大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門する。
1848年嘉永元年緒方洪庵の適塾で塾頭となり蘭学者として頭角を現す。
1853年嘉永6年宇和島藩主伊達宗城に招かれ宇和島藩士となり蘭学と兵学を教授し軍艦や砲台の建造に従事する。
1856年安政3年江戸に出て私塾鳩居堂を開くとともに幕府蕃書調所教授方手伝や講武所教授に就任する。
1860年万延元年長州藩に召し抱えられ山口普門寺に蘭学塾を開き西洋兵学の教授を始める。
1863年文久3年長州藩西洋兵学機関博習堂の規則改訂を担い長州藩の軍事近代化に本格的に関わる。
1864年元治元年長州藩兵学校教授役を命じられ洋式兵学教育の中心的役割を担う。
1865年慶応元年長州藩軍務掛となり藩の軍制改革を主導し同時に名を村田蔵六から大村益次郎に改める。
1866年慶応2年第二次長州征討で石州口の総参謀として指揮を執り長州藩を勝利に導く。
1868年慶応4年・明治元年新政府軍の東征軍参謀として戊辰戦争に参加し上野戦争で彰義隊を破るなど軍事指導者として活躍し軍務官副知事に任命される。
1869年明治2年兵部省設置とともに兵部大輔となり近代的軍制の確立を進めるが9月京都で不平士族に襲撃され負傷し11月大阪で死去する。
1893年明治26年靖国神社境内に大村益次郎銅像が建立され日本陸軍の父として顕彰される。
1919年大正8年大村益次郎に従二位が追贈され維新期の軍事指導者としての評価が確立する。

まとめ|大村益次郎は日本の近代軍制を築いた先駆者

大村益次郎は医師や蘭学者として出発しながら長州藩の軍制改革や戊辰戦争での指揮を通じて日本の近代軍事を形づくった人物です。

長州藩では西洋式の兵学や軍備を導入して藩の軍隊を近代化しその経験をもとに新政府でも兵部大輔として軍制改革に乗り出しました。

藩ごとに分かれていた武力を中央政府のもとに統一し常備軍を整備するという構想や身分にとらわれない国民皆兵の発想は後の徴兵令や陸軍制度の礎になりました。

また刀や槍に頼る旧来の戦い方から銃砲や砲兵を中心とする合理的な近代戦への転換を進めたことで日本が列強と向き合うための軍事的土台を築いたといえます。

一方で急進的な改革は旧来の武士階層や保守的な勢力の強い反発を呼び大村は暗殺によって45歳でその生涯を閉じました。

彼の構想はすべてが実現したわけではありませんが徴兵制を核とする近代的常備軍という方向性は山県有朋ら後継者によって受け継がれ日本陸軍の制度として結実していきました。

現在大村益次郎は日本陸軍の父や近代兵制の父と呼ばれ靖国神社の銅像などを通じて維新期の軍事と近代化を象徴する存在として記憶されています。

大村の歩みを知ることは日本の近代国家がどのような考え方と選択を通じて軍事と国家体制を形づくっていったのかを理解する手がかりになります。

この記事をきっかけに戊辰戦争や明治初期の軍制改革さらには現在に至る日本の安全保障や国家のあり方についてもあらためて考えてみてはいかがでしょうか。

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